刑事弁護

「気骨の記事」・・・こういう記事を書ける新聞記者もいるんだなあ。

 最近はちょっと旗色が変わってきたが、ひところの新聞は「裁判員制度バンザイ」みたいな記事ばかりだった。

 新聞社は、あれだけ大きな裁判員制度の広告を掲載して高額な広告料をもらっているんだろうから、仕方がないのだろうか、と残念に思っていた。

 しかし、少し前からは、裁判員制度に懐疑的な記事も少しずつ掲載されるようになってきた。

 そして、、本日、ボ2ネタで知ったこの記事などは、随分と大胆な裁判員制度の批判記事だ。しかも署名付き。

 <記者だより>裁判員裁判 東京新聞 2009年9月21日  (市川隆太)

 随分はっきりした意見だ。

 私の感想は、ボ2ネタのコメント欄に記載された方々と同じ。

 東京新聞は、東海地方では中日新聞。この記事は中日新聞でも掲載されたのだろうか。

 とすれば、ちょっと見直した。

 この記者はどういう方なのだろうかと検索してみたら、こういう方だった。

 確かに、この記事でも、「裁判員制度」についての「制度論」を語っておられる。

 記者がこのようなことを書くことについては賛否両論があるだろうが、私はこういう記者がいてもいいと思った。

 おしなべて「裁判員制度 翼賛記事」を書かれるのは、本当に気持ちが悪い。

 そう言えば、きょう届いた法律新聞第1824号の

 裁判員制度の危険性 その底に流れるもの (16)最終回  (織田信夫仙台弁護士会会員 の講演から)で、織田弁護士もこう言っておられる。

 私の恐ろしさは、ここ、すなわち権力が定めた以上、今さらじたばたしても仕方がない、その制度に潜む真実の姿、西野喜一先生のいわゆる「裁判員制度の正体」に、どういう訳か切り込もうとしないという、全体主義的傾向なのです。しかし、これは民主主義の破壊への道なのです。

 民主主義の敵は、民主主義を巧妙に装ってやってきます。ヒトラーのナチス政権誕生の経緯のように。

 確かに「できてしまった制度は仕方がない」という風潮は、弁護士の中にもある(これは裁判員制度に限らず司法制度改革全般について言えることだが)。

 でも、できてしまった制度は「おかしな制度であってもおかしいと言えない」というのは、織田弁護士の言われるように「民主主義の破壊への道」だろう。

 こういう記事を掲載した東京新聞の「太っ腹」と市川記者の「気骨」にはちょっと感動した。

過去の関連記事:

「ヒットラーがそこにやってきた」(西義之著)を読み返して

 

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裁判員制度の廃止を求める声明

 9月14日に発表された「裁判員制度の廃止を求める声明」

 毎日新聞が短い記事にしてくれている。

 <裁判員制度>廃止求め、東海3県弁護士が声明   (毎日新聞)

 東海3県で初の裁判員裁判が津地裁で15日から始まるのを前に、「裁判員制度の廃止を求める東海弁護士の会」が14日、「裁判員制度は裁判員となる国民に過大な負担を強いる」などと廃止を求める声明を発表した。

 呼びかけ人は、当初の目標の200人以上が集まったという。

 ※ この声明の全文と呼びかけ人リストを、このブログの右サイドに掲示致しました。

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裁判員制度の違憲申し立て

「裁判員制度は違憲」申し立て=強盗致傷の被告側-裁判官3人の審理求める

 2009年9月1(火)13時22分配信 時事通信

 申立書で弁護人は、公判前に非公開で争点を絞り込む公判前整理手続きは、裁判の公開原則に反し、連日開廷への参加を強要されることなどで、被告の防御権が侵害されるとした。また、国民への裁判参加の義務付けは、裁判に参加したくない人の幸福追求権や、思想・良心の自由など基本的人権を侵害すると主張。公平な裁判所の保障や、裁判官の任命方法を定めた憲法の規定にも違反すると訴えた。 

  予想されていたことだが、ついに来たか!

  裁判所は、あれだけ「裁判員制度推進キャンペーン」をやってきて、全うに違憲審査権を行使できるのか。      

 個々の裁判官には「気骨の判決」を期待します。

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江川紹子さんの裁判員裁判第1号の傍聴体験記

 江川紹子さんも裁判員裁判第1号を傍聴されたそうだ。

  江川紹子ジャーナル

 新聞記者らの傍聴記事とはまた違った視点から書かれている。さすがオウム裁判など数々の刑事裁判を傍聴されてきたジャーナリストだ。

 なかなか読み応えのある記事なので、ぜひ多くの方に読んで頂きたい。

 江川さんは、「朝まで生テレビ」の裁判員制度についての討論では、裁判員制度反対側の席に座っておられた。

私の過去の記事 朝まで生テレビ裁判員制度特集の感想(少し) 参照

 裁判員裁判を傍聴する① より

各地方裁判所での「第一号事件」が終わり、おそらく再びメディアが注目する「死刑判決第一号」が出て、裁判員裁判だからといってあまりマスコミの注目を集めず、裁判所もことさらに丁重な対応をしなくなった頃に、どうなっているのか。その時からが、本当の意味での裁判員裁判の始まりではないか、という気がしている。

 という江川さんのご感想には、全く同感である。

 今回は、裁判員裁判第1号ということで、マスコミが報道合戦をすることが予想されていた。裁判員制度推進派は、アンケート等で過半数以上の国民が乗り気でないことを懸念して、「絶対失敗は許されない」と周到な準備をしたことだろう。検察庁、弁護士会、裁判所、それぞれが準備に力を入れていたことが伺われる。

 しかし、裁判員裁判が各地の裁判所で次々と実施され、マスコミも注目しなくなったときが怖ろしい。江川さんの言われるように、「その時からが、本当の意味での裁判員裁判の始まり」だと思う。

 江川さんが、傍聴人のことを「囲いの羊」(裁判員裁判を傍聴する②)と言っているのが面白かった。確かに、法廷に大型モニターを設置するなど、傍聴人にも分かりやすいように配慮しているのが今までの裁判と大違い。傍聴人は「いずれ裁判員になるかもしれないということで、前より大事にされている感じはする。」という江川さんの推察にも同感だ。

 裁判員裁判を傍聴する③ より

 3職業裁判官も補充尋問を行った。
 裁判長の質問の中に、こんなものがあった。
「あなたはこれまでもお酒がらみで事件を起こしているし、それを反省したらお酒はやめなきゃと思わなかったの?」
 被告人は「一時的にはやめても、寂しさというか、家に帰っても誰もいないし…」と答えた。
 こういう情状に関わる事柄を、今回の弁護人は全然取り上げてこなかった。小学校を出てすぐに働き、中学に行くこともできなかった生い立ちなど、裁判員の同情や共感を引き出すような立証活動をなぜ全然やらないのだろうか。あまりに感情的になってはいけないが、一般市民の感覚に訴えるということも、裁判員裁判の弁護活動としては、ある程度は必要ではないか。

 裁判員の質問などについてのご意見は、私のとはちょっと違うが、「裁判員は供述調書全部を読まない」という前提ならばそういう感想を持たれるのも無理からぬことだろうなと思った。

 警察官や検察官が捜査段階で作成する供述調書には、被告人の生い立ち、経歴、趣味や嗜好まで、詳細に記載されている。たいていの職業裁判官はそういう調書をきっちり読んでいる。弁護人も被告人が酒に溺れた生活をするに至った経緯や心情については調書に詳細に書かれてあることだし、特に強調して質問しなければという意識が働かなかったのではないか。でも、裁判員裁判では、確かに江川さんの言われるように、「一般市民の感覚に訴えるということも、裁判員裁判の弁護活動としては、ある程度は必要ではないか。」ということになるのだろう。

 しかし、そのためには、弁護人は、じっくり被告人質問ができるだけの時間をもらう必要があるだろう。生い立ちから語らせれば、相当の時間がかかるのだから(しかも、被告人には、そういうことをスラスラと法廷で語れる人は少ない)。しかし、その必要があるのなら、裁判員にも長時間の被告人質問に付き合って頂く必要がある。

 検察側は組織的かつ全国的に裁判員対策を進めているのだろう。それに比べ、弁護士たちの方はどうなのだろうか。今回の裁判を見る限り、弁護側の対策の立ち後れがいろいろな面で目立った。
 裁判員制度による裁判では、今まで以上に弁護人の力量が問われる。傍聴人にも分かりやすい裁判だけに、手抜きはもちろんのこと、不十分な弁護活動はすぐに見抜かれるし、被告人への影響も大きい。各地の弁護士会を中心に、弁護人の力量を向上させる取り組みが急務ではないか。

 各地の弁護士会も頑張ってはいるとは思う。

 しかし、裁判員裁判には、準備に時間も費用もかかる。今回の裁判員裁判を見ていてもそう思った。

 そもそも検察側と弁護側には、組織力と経済力において圧倒的な差があるのだ。

 いくら精神論を並べても、「時間がかかる、報酬が低い、おまけに充分な費用も出ない」(今回の裁判員裁判第1号が国選弁護だとすれば、弁護人の収支がどうなっていたか気になる)という裁判員裁判に力を入れようという弁護士が増えないのは当然だ。 

 公務員の検察官と違って、弁護士は自営か給与所得者だ。

 経営者弁護士であれば、裁判員裁判の準備に集中できるほどの経済的・時間的余裕がなければ引き受けられない。

 勤務弁護士が個人事件として受任するなら、雇用主である経営者弁護士の了解が必要だ。短期間に集中して仕事をしなければならない裁判員裁判を引き受ければ、その間事務所の仕事が二の次になりかねない。それを快く了解するほど余裕のある経営者弁護士は、弁護士人口が加速度的に増加して競争が激しくなっている現在ではそうそういないだろう。

 各地の弁護士会で、裁判員裁判の弁護の引き受け手の確保が困難を極めているのにはこういう事情があるのだ。

 そもそも引き受けたくない、引き受けたくても経済的・時間的事情により引き受けられない事件について、力量を向上させる努力を求めること自体が無理というものだ。

  壮大な刑事裁判ショーで被告人に有利な判決を得るには、CGを駆使し、パフォーマンス技術を磨く必要があるだろうが、そういうことができる有能な弁護士を雇うことができるのは、これからはごく一部の資産家だけということになってしまうかもしれない。

 国選弁護人にそういうことをやってもらおうと思うのは、よほどのボランティア精神があるか、よほどの使命感のある弁護士に当たらない限り、おそらく無理だと思う。

 精神論をいくら唱えたところで、弁護士も生活者であるから、無理なものは無理である。

 「各地の弁護士会を中心に、弁護人の力量を向上させる取り組みが急務ではないか。」というのは正論だと思うが、こういう事情について江川さんはどうお考えなのだろうかと思った。

 

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裁判員制度の廃止を求める呼びかけ人・賛同者になって下さい!(再度)

 「裁判員制度の廃止を求める東海弁護士の会」では、裁判員制度の廃止を求める呼びかけ人・賛同者を募集しています。

  愛知県弁護士会、三重弁護士会、岐阜県弁護士会 所属の 裁判員制度に反対の弁護士の方

は、ぜひ右サイドの「裁判員制度の廃止を求める呼びかけ」の回答書(PDF)の書面の 1 呼びかけ人になります 2 賛同者になります のいずれかに○をつけて、同書面に記載のある秋田弁護士の事務所にFAXお願い致します。

 裁判員制度の実施には多くの弁護士が反対しています。しかし、それを目に見える形で社会や政治家に訴えていかなければ、裁判員制度廃止にまで持ち込むことはできません。

 「できてしまった制度だから仕方がない」と諦めてしまわず、「自分たちが声を上げなくてもいずれ廃止になるだろう」という傍観者的な立場に終始することなく、裁判員法という悪法の廃止のためにできることはやってみませんか。

 署名だけなら簡単です。

 署名の数によって社会や政治家に対する影響力も違ってきます。

 1人でも多くの弁護士が参加して下さることを期待しています。

 ※ この記事は当分の間トップに掲載致します。

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裁判員制度のこころ

 「裁判員制度の廃止を求める東海弁護士の会」の呼びかけ人の1人である先輩弁護士から、岐阜県弁護士会会報2009年6月号に掲載された大岡琢美弁護士の記事がすばらしいので、私のブログにも掲載してほしいという依頼がありました。

 大岡弁護士の了解を得て、ここに掲載させて頂きます。

 裁判員法制定の経緯や裁判員制度が国民に新たな義務を課すものであり民主的な要素がほとんどない制度であることを明快に述べられています。ぜひご一読下さい。

     裁判員制度のこころ (PDF)

 私には、そもそも「こころ」などない制度のように思えますがね。

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裁判官による誘導の危険(追記あり)

 足利事件の記事を読んで、保坂展人議員の次のような記事を思い出した。

 私は、東京地裁で模擬法廷を見たが裁判長は、「被告人は捜査段階で供述をコロコロと変えています。こうした人は一般的に信用性が低いと言うんですね。」と裁判員に語りかけているのをモニターで見てゾッとした。公開された法廷で予断を排除して審理に臨むと言っても、裁判長の描くシナリオに裁判員が強く影響されてはならないし、刑事裁判の原則を懇切丁寧に裁判員に伝える「説示」も個々の裁判体の扱いに任せるという最高裁の姿勢は、あまりに無責任だ。

 「裁判員法改正の実現を 凍結と罰則削除、2段構えで」(週間法律新聞第1806号 平成21年5月1日)より (太字は私が付したもの)

 この裁判長に限らず、こういう考えを持っている裁判官は少なくないと思う。

 しかし、それを裁判員に「一般的に信用性が低いと言うんですね。」などと言う神経が理解できない。こうまで言われて裁判員はそれに抵抗できるだろうか。

 供述の変遷(自白の撤回も含む)があったとしても、その理由こそ大切だ。

 週刊朝日の「冤罪はこうしてつくられる 自白の強要、証拠捏造…裁判員は見破れるか」(週刊朝日 2009年06月12日号配信掲載) 2009年6月3日(水)配信 の

 甲山事件や狭山事件をはじめ、数々の事件で被告人の供述調書を鑑定し、『自白の心理学』(岩波新書)の著書がある奈良女子大の浜田寿美男教授(心理学)によれば、

 それにしても、無実の人間がやってもいないことを自白するわけがないではないか。そんな疑問に前述の浜田教授はこう答える。

「自白する精神状態が異常なのではなく、被疑者、被告人が置かれる状況こそが異常なのです。よほどの人間でなければ、まずウソの自白をしてしまいます」

 ということだ。

 そういう状況に置かれたことのない、人間は常に冷静で合理的な思考が可能だと思っている優秀な人(※)には、こういう人間の心理状態は理解できないのかもしれない。

※ 私の主観ですが裁判官にはそういう方が多いように感じます。刑事事件に限らず消費者被害事件でもそう感じます。なぜそんなことで騙されたのか、なぜそんなバカなことをやってしまったのか、なかなか理解してもらえないように感じます。

  甲山事件で逮捕された山田悦子さんの場合も、捜査段階で自白してしまっている。

 74年3月、兵庫県西宮市の知的障害児施設で2人の園生が行方不明となり、その後、いずれも水死体で見つかった。目撃証言などをもとに、兵庫県警は保母をしていた当時22歳の山田さんを殺人容疑で逮捕した。当初は容疑を否認していた山田さんは、

「お前みたいに極悪非道な女はおらん。自分の罪に対して何とも思わんのか」

 といった警察官たちの威圧的な取り調べを受ける。アリバイの証明を連日求められるが、どうしても記憶が埋まらない。混乱し、次第に自分の記憶に自信をなくした山田さんは、ついにウソの自白をしてしまう。

〈獄中でも食事や排泄などの日常はあるわけですが、すべて監視の下に置かれ、他人から見られ続けて生活させられると、考える力もマヒし、取り調べに対抗して無実を訴える力をはぎ取られます〉

事件から25年後にようやく無罪が確定した後、山田さんは取材にこう答えている。取り調べそのものの苦痛よりも、苦痛がいつまで続くか見えない不安から、たいていの人間は“落ちる”と浜田教授は言う。

 被疑者の中には決して自白しない強靱な精神力の持主もいるだろうが、普通の人間にはこういう状況はそうそう耐えられるものではない。

 「難しいことは裁判官に教えてもらえばいいから」というお客さん的な立場ではなく、「専門家の裁判官がこう言ったから本当なんだろう」と安易に裁判官の言葉を信用するのではなく、裁判官の意見に立ち向かっていくこともできる裁判員がどれだけいるだろうか。

 模擬裁判と異なり、実際の裁判員裁判では守秘義務のために評議の内容が明らかにされないため、検証の仕様がない。

 保坂議員の見た模擬裁判のようなことが、実際の裁判員裁判の評議の中で起こらない保証はどこにもないのである。

関連記事

 講演「なぜ、無実の人が自白するのか?-アメリカの虚偽自白125事例が語る真実-」に参加して 

   ひらのゆきこ  2008/12/18  市民の市民による市民のためのメディアより

 この冤罪救済の第一線で活躍し、完全無罪事例の虚偽自白の実態を研究されているという 講師のスティーブン・ドリズィンさん(ノースウエスタン大学ロースクール教授)のお話は大変興味深い。

 アメリカでも虚偽自白の抑止のために被疑者の取調の電子記録(録画・録音)を取ることが議論されているそうで、ドリズィンさんは、

 日本では裁判員制度が導入されるが、ますます重要になるのが取調べの過程の全記録である。自白の部分のみの録画・録音は、まったくしないよりも悪い。自白の証拠として陪審員が信じるリスクが高まる。記録されない自白は信用性がない。証拠として採用されるためには、検察側が強力な証拠を提示しなければならない。

と述べている。ごもっともなご意見だ。(下線は私が付したもの)

 そして、

 アメリカの取調べの状況について、ドリズィンさんは「アメリカでも取調べの可視化を求めてきた。肯定的意見が出ている。アラスカ州では取調過程が全面可視化になった。2003年7月、イリノイ州でも全面可視化が実現した。そのとき尽力したのがオバマ氏」と述べ、次期アメリカ大統領のオバマ氏が可視化実現のために行動を起こしてくれたことを明らかにしました。

 そうである。

 オバマさんも弁護士だから問題意識をお持ちだったのだろう。

 筆者は、

 みなさんのお話を聞いて思ったのは、虚偽自白を生む温床となっている密室での取調べや代用監獄など、問題がまったく解決していないなか、「現代の赤紙」「召集令状」とも言われ、多くの人々が「参加したくない」と思っている裁判員制度の導入は、さらに冤罪を生み出す可能性があり、拙速に実施するべきではない、ということでした。

 と述べられているが、私も全く同感である。

 拙速に裁判員制度を実施するよりも、まず代用監獄の廃止と取り調べの全面可視化の法制化が先でしょう。                

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「冤罪はこうしてつくられる」(週刊朝日)を読むーTwitterもどき(6月3日午後5時15分)

 残業中。明日はまた起案日にあてるつもりなので、今日のうちにやっておかなければならない仕事がたくさんある。

 ひとやすみの間に、週刊朝日の「冤罪はこうしてつくられる 自白の強要、証拠捏造…裁判員は見破れるか」を読む。裁判員制度導入よりも、代用監獄の廃止や取り調べの全面可視化の方が先でしょうに。

 きょうは先輩弁護士から東海三県の弁護士を対象にした裁判員制度反対声明への署名活動に協力してもらえないかとの電話があった。趣旨には賛成だけど、私は「Twitterもどき」記載のぼやきのような状況なので、電話での賛同のお願いなどに協力することは無理だとお話しした。

 東海三県の弁護士の方で、裁判員制度反対運動に立ち上がって下さる方はどなたかおみえになりませんか?

  「よし、やってやろう」という方がおみえでしたら、ぜひ私の事務所までFAX下さい!

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裁判員制度は「平成デモクラシー」の産物なのか?ーその2

 明治憲法下の天皇制国家における陪審制は「天皇の大御心の発露」によるものと位置づけられてたので、前記のような名ばかりの制度であったのはやむをえないことだったかもしれない。

 結局、戦前の陪審制は15年で停止されてしまった。その原因については諸説あるようだ。

 日弁連のHP 日本でも陪審制度が行われていた! の説明はこう。

 1943年、陪審法は停止されるに至りました。その理由については、「陪審事件数が減る一方、戦争が激化する中で、陪審制度維持のための労力(市町村による陪審員資格者名簿・候補者名簿作成の事務負担など) を削減する必要があるため」と説明されています(岡原昌男「『陪審法ノ停止ニ関スル法律』に就て」(法曹会雑誌21巻4号 1943年)参照)。

そして、陪審事件数が減少した理由については、さまざまな分析が行われています。そもそも、日本国民は裁判官による裁判を志向したとの見解もある一方、制度上の問題点を指摘する見解もあります。例えば、陪審法の下では、被告人は、有罪判決を受けてもこれに対し控訴することができませんでした。また、事件によっては、有罪判決の場合、訴訟費用や高額に上る陪審費用(陪審呼出の費用や日当、宿泊料など)を負担するリスクもありました。さらに、陪審裁判の選択は、審理前に、担当裁判官への不信を表明することを意味します。陪審法では、陪審の判断は裁判官にとって「参考意見」にすぎず、最終決定は担当裁判官が行いましたので、被告人側にとっては、裁判官の悪印象を避けたいとの心理的抵抗があったともいわれています。こうした理由から、被告人が陪審裁判を選択しづらかったと指摘されています。

  当時の法律新聞(1930年6月28日付法律新聞3135号)には、次のような記載がある(高山俊吉著「裁判員制度はいらない」135頁)。

 司法裁判史上画期的な試みとして各方面から非常に期待された陪審法は実施以来1年8ケ月になるが期待に反して実際陪審裁判の開かれる数が非常に少なく、当局も奇異な現象として調査している。(略)このごろでは、この撤退組がますます殖えて来ているし、青森、大津、富山、松江あたりはまだ1回も陪審裁判を開かないという閑散振りである。従って、その後司法省の予算もぐっと減らされている。

※ 読みやすくするため一部の旧仮名遣いは現仮名遣いに変更した。 

 結局、国家の財政面においても、被告人の防御権の面でも、支持されない制度であったわけだ。

 早川議員は、「私たちは、常に歴史に学ぶ必要があります。」と言われるのであれば、こういう歴史的事実も学ぶ必要があるでしょう。

                                      (つづく)

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裁判員制度は「平成デモクラシー」の産物なのか?ーその1

 保坂展人議員のブログで知った早川忠孝議員(自民党衆議院議員、法務大臣政務官、弁護士)のブログ衆議院議員早川忠孝の一年発起・日々新たなりの記事「66年ぶり司法へ民意反映」という見出しがいい/裁判員制度」を読んで、絶句してしまった。

 早川議員は、戦前の陪審制を「大正デモクラシー」によるものとして礼賛し、

私たちは、常に歴史に学ぶ必要があります。

裁判員制度のスタートの背景には、「平成デモクラシー」といったものがあるのかも知れない。

裁判員制度が万一瓦解するような時代がくるとすれば、その時は、再び日本が戦争の時代に突入し、あらゆる民主的な制度が改廃される時代なのかも知れない。

私はそう思っております。

 と述べられている。

 早川議員は、本気で裁判員制度が「平成デモクラシー」の産物だと思っておられるのだろうか。

 なら、どうしてこうも裁判員制度に反対する国民が多いのだろう?

                 libra

  戦前の陪審制についていえば、

  確かに大逆事件や日糖事件を嘆いた原敬首相の理想としたところは「国民による司法の監視」だったのかもしれない。 

 しかし、実際に出来た日本の陪審制は、

 陪審法における陪審員は、直接国税3円以上を納める日本国民の男子から無作為抽出で選ばれた12人で構成されました。 対象事件は、被告人が否認している重罪事件。陪審員は、有罪・無罪の結論を出し、裁判官に対し「答申」しますが、裁判官は法律上これに拘束されず、「答申」を採用せず審理のやり直しを命じることができました。また、被告人は、陪審員による裁判か、裁判官による裁判かを選択することができました。

日弁連の裁判員制度HP 日本でも陪審制度が行われていた! より

という制度だったことを忘れてはいけない。

  戦前の陪審制の場合、裁判官は評議には加わらなかったし、被告人には陪審員による裁判か、裁判官による裁判か選択権も与えられていた(その点では今の裁判員制度よりまし)。そのかわり、陪審員になれる国民は限られていたし、裁判官はいつでも陪審員の評議の結果をくつがえすことができたのである。

 もともと欧米の陪審制とは似て否なるものだった。

 この日本の陪審制の導入の意義については、陪審制発足3年後の1931年に陪審員候補者の全国団体「大日本陪審協会」が刊行した「陪審手引」が次のように説明している。

 陪審制度を採用することになりました理由は、(王権乱用の抑止から出発した欧州各国の陪審制度とは)根本から相異っているのであります。決して民衆から要求されたものでもなく、また従来の裁判に弊害があった訳でもありません。従来行われて来た日本の裁判は、その厳正公平なることに於いては、全く世界にその比をみない程、立派なものでありまして、国民もまた絶対にこれを信頼していたのであります。しからばいかなる理由で、これを採用致しましたかと申しまするに、それは立憲制度の大精神に基づいているのであります。

 国民をして国政の一部に参与せしめられましたのは、全く天皇の大御心の発露にほかならないのであります。素人である一般国民にも、裁判手続の一部に参与せしめたならば、いっそう裁判に対する国民の信頼も高まり、同時に法律知識の涵養や、裁判に対する理解を増し、裁判制度の運用を一層円滑ならしめようとする精神から、採用されることになったのであります。

(陪審員の意見に裁判官が拘束されると)その結果感情に動かされて、立派な犯罪事実を「否」と否定し、裁判官はよんどころなく無罪を宣告する、・・・こうした欠点や非難に鑑みまして、わが陪審では、裁判官が陪審の評決意見には、拘束されないことになっております。わが陪審法独特のものであると同時に、大なる誇りであります。

 評決は過半数の意見によって、決定するのであります。即ち陪審長共に7名以上の同意を必要とする訳であります。万一陪審の答申を裁判所が不当と認めた場合は、裁判所はこれを採択しないのであります。新たに陪審を構成して、その事件に対する裁判のやり直しをなし、裁判所の意見と一致するまで、何度でもこれを行うことができるのであります。

※ 読みやすくするため一部の旧仮名遣いは現仮名遣いに変更した。( )内は要約。太字と下線は私が付したもの。(高山俊吉著「裁判員制度はいらない」118頁~ より抜粋)。

 戦前の陪審制の問題点はこれを読むとよくお分かりだろう。

 裁判所の意見と一致するまで何度でもやり直しが命じられる陪審員の評議に何の意味があるのか。ただ、裁判所の判断に国民を従わせ国民が参加したというアリバイづくりのために利用されただけではなかったのか。

                  (つづく) 

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