「司法改革の失敗」(花伝社発行)を読んでみる。・・・Twitterもどき(5月7日午後10時30分)
連休は終わったが、私はそもそも今年は「休み」という感覚が全くなかった。
平日よりもキツかった!
予定の仕事は、まあ7割程度は達成した。
大作準備書面もほぼ完成し、尋問準備の方も7割くらいはできた。
パブコメも書きました!中間取りまとめ案の各項目に対して準備書面的に反論していたら、20枚以上にもなってしまった!
疲れた・・・
ちょっと一休みして他の弁護士のブログを見たら、小林正啓弁護士がこんな記事を書かれていた。
中坊公平氏死去 (花水木法律事務所)
あいかわらず、中坊氏は「敗戦処理投手」にすぎず、弁護士過剰増員の本当のA級戦犯(これは黒猫さんの記事司法改革の「A級戦犯」逝くへの皮肉なんでしょうね)はこちらだというご主張。
このような事態に至った「A級戦犯」は、800人案を提案した故辻誠もと日弁連会長であり、これを受け入れた故土屋公献日弁連会長(当時)、辻誠弁護士とともに800人決議案を提案した前田知克弁護士、そして、800人決議をめぐる「陰謀」(『こんな日弁連に誰がした?』94頁)に関わった全ての弁護士である。
この件に対する反論は、「司法改革の失敗」(花伝社発行)の鈴木秀幸弁護士執筆部分「Ⅰ 司法のあり方と適正な弁護士人口政策」に司法改革の歴史についての記載があるので、ぜひお読み頂きたい。
少しご紹介。
「ロ.司法審意見書が合格者3,000人計画を打ち出し、その結果、就職難と弁護士集団の経済的基盤の危機を迎える事態が避けられないことが明白になるや、執行部を支持してきた者達から、弁護士集団が弁護士増加に反対するというギルド的な態度をとったことが外部の人々からひどく反発を受けて、そのために大増員という結果を導いてしまったのだという言説が振りまかれるようになった。
(中略)
執行部は、東京と大阪の大派閥の集票能力をフルに発揮して、一般会員を無視し、やりたいように日弁連の方針を決めてきたのであり、それにもかかわらずこの言い草はない。極めて政治的な言動である。法務省は、遅くとも1994年11月の時点で合格者を1500~3000人にし、修習期間を1年以下ないし廃止し、給費制廃止まで口にしていた。これに歩調を合わせる学者、連合、消費者、マスメディアが改革協の委員に集められていた。日弁連は、どの辺で手を打つべきだったと言うのであろうか。言われるままに 従うべきだったと言うのであろうか。」
(同書83頁)
小林弁護士は、日弁連は早いところ「司法試験合格者数1000人」で手を打っていれば、発言権も失わず、1000人を維持できたかのように言われているが、現実にはそんな甘い情勢ではなかっただろう。
むしろ、早くからそんな妥協をしていれば、「日弁連、くみしやすし」と侮られ、さらなる無理難題をふっかけられ、日弁連執行部はズルズルと妥協を繰り返していたに違いない。
皆様には、ぜひこの「司法改革の失敗」をお読み頂きたい。
中坊公平氏の司法改革における「影」の部分がしっかり書かれている。
もっとも、私は、日弁連をこんな事態に陥らせた一番のA級戦犯は、中坊公平氏ではなく、東京、大阪の「派閥」だと思っている。そして、その派閥を動かしたのは小林弁護士の言われるような「法曹一元」などという美しい理念ではなく、もっと「おどろおどろしいもの」だったと思っている。
中坊公平氏は司法審に「弁護士会の代表」として参加したなどという記事を書いたマスコミの記者も、この「司法改革の失敗」をぜひ読んでほしい。
なお、司法審の委員構成は、弁護士集団の抵抗を排除するため、弁護士は利害関係者であるから委員にするべきではないとされ、日弁連を代表する委員が1人も選任されなかった。国民・マスメディア受けのスタンドプレーと日弁連執行部への影響力を期待して、中坊氏が一本釣りされた。そのために、中坊氏は個人として委員に任命され、自ら弁護士の代表ではないと公言していた。
(同書61頁)
この司法審の委員構成のくだりは、私の当時の記憶とも合致しており、歴史的事実であろう。
A級戦犯ではなくても、中坊公平氏、そして当時の日弁連会長の久保井一匡氏の責任は極めて重いと思う。
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