江川紹子さんの裁判員裁判第1号の傍聴体験記
江川紹子さんも裁判員裁判第1号を傍聴されたそうだ。
新聞記者らの傍聴記事とはまた違った視点から書かれている。さすがオウム裁判など数々の刑事裁判を傍聴されてきたジャーナリストだ。
なかなか読み応えのある記事なので、ぜひ多くの方に読んで頂きたい。
江川さんは、「朝まで生テレビ」の裁判員制度についての討論では、裁判員制度反対側の席に座っておられた。
私の過去の記事 朝まで生テレビ裁判員制度特集の感想(少し) 参照
裁判員裁判を傍聴する① より
各地方裁判所での「第一号事件」が終わり、おそらく再びメディアが注目する「死刑判決第一号」が出て、裁判員裁判だからといってあまりマスコミの注目を集めず、裁判所もことさらに丁重な対応をしなくなった頃に、どうなっているのか。その時からが、本当の意味での裁判員裁判の始まりではないか、という気がしている。
という江川さんのご感想には、全く同感である。
今回は、裁判員裁判第1号ということで、マスコミが報道合戦をすることが予想されていた。裁判員制度推進派は、アンケート等で過半数以上の国民が乗り気でないことを懸念して、「絶対失敗は許されない」と周到な準備をしたことだろう。検察庁、弁護士会、裁判所、それぞれが準備に力を入れていたことが伺われる。
しかし、裁判員裁判が各地の裁判所で次々と実施され、マスコミも注目しなくなったときが怖ろしい。江川さんの言われるように、「その時からが、本当の意味での裁判員裁判の始まり」だと思う。
江川さんが、傍聴人のことを「囲いの羊」(裁判員裁判を傍聴する②)と言っているのが面白かった。確かに、法廷に大型モニターを設置するなど、傍聴人にも分かりやすいように配慮しているのが今までの裁判と大違い。傍聴人は「いずれ裁判員になるかもしれないということで、前より大事にされている感じはする。」という江川さんの推察にも同感だ。
裁判員裁判を傍聴する③ より
3職業裁判官も補充尋問を行った。
裁判長の質問の中に、こんなものがあった。
「あなたはこれまでもお酒がらみで事件を起こしているし、それを反省したらお酒はやめなきゃと思わなかったの?」
被告人は「一時的にはやめても、寂しさというか、家に帰っても誰もいないし…」と答えた。
こういう情状に関わる事柄を、今回の弁護人は全然取り上げてこなかった。小学校を出てすぐに働き、中学に行くこともできなかった生い立ちなど、裁判員の同情や共感を引き出すような立証活動をなぜ全然やらないのだろうか。あまりに感情的になってはいけないが、一般市民の感覚に訴えるということも、裁判員裁判の弁護活動としては、ある程度は必要ではないか。
裁判員の質問などについてのご意見は、私のとはちょっと違うが、「裁判員は供述調書全部を読まない」という前提ならばそういう感想を持たれるのも無理からぬことだろうなと思った。
警察官や検察官が捜査段階で作成する供述調書には、被告人の生い立ち、経歴、趣味や嗜好まで、詳細に記載されている。たいていの職業裁判官はそういう調書をきっちり読んでいる。弁護人も被告人が酒に溺れた生活をするに至った経緯や心情については調書に詳細に書かれてあることだし、特に強調して質問しなければという意識が働かなかったのではないか。でも、裁判員裁判では、確かに江川さんの言われるように、「一般市民の感覚に訴えるということも、裁判員裁判の弁護活動としては、ある程度は必要ではないか。」ということになるのだろう。
しかし、そのためには、弁護人は、じっくり被告人質問ができるだけの時間をもらう必要があるだろう。生い立ちから語らせれば、相当の時間がかかるのだから(しかも、被告人には、そういうことをスラスラと法廷で語れる人は少ない)。しかし、その必要があるのなら、裁判員にも長時間の被告人質問に付き合って頂く必要がある。
検察側は組織的かつ全国的に裁判員対策を進めているのだろう。それに比べ、弁護士たちの方はどうなのだろうか。今回の裁判を見る限り、弁護側の対策の立ち後れがいろいろな面で目立った。
裁判員制度による裁判では、今まで以上に弁護人の力量が問われる。傍聴人にも分かりやすい裁判だけに、手抜きはもちろんのこと、不十分な弁護活動はすぐに見抜かれるし、被告人への影響も大きい。各地の弁護士会を中心に、弁護人の力量を向上させる取り組みが急務ではないか。
各地の弁護士会も頑張ってはいるとは思う。
しかし、裁判員裁判には、準備に時間も費用もかかる。今回の裁判員裁判を見ていてもそう思った。
そもそも検察側と弁護側には、組織力と経済力において圧倒的な差があるのだ。
いくら精神論を並べても、「時間がかかる、報酬が低い、おまけに充分な費用も出ない」(今回の裁判員裁判第1号が国選弁護だとすれば、弁護人の収支がどうなっていたか気になる)という裁判員裁判に力を入れようという弁護士が増えないのは当然だ。
公務員の検察官と違って、弁護士は自営か給与所得者だ。
経営者弁護士であれば、裁判員裁判の準備に集中できるほどの経済的・時間的余裕がなければ引き受けられない。
勤務弁護士が個人事件として受任するなら、雇用主である経営者弁護士の了解が必要だ。短期間に集中して仕事をしなければならない裁判員裁判を引き受ければ、その間事務所の仕事が二の次になりかねない。それを快く了解するほど余裕のある経営者弁護士は、弁護士人口が加速度的に増加して競争が激しくなっている現在ではそうそういないだろう。
各地の弁護士会で、裁判員裁判の弁護の引き受け手の確保が困難を極めているのにはこういう事情があるのだ。
そもそも引き受けたくない、引き受けたくても経済的・時間的事情により引き受けられない事件について、力量を向上させる努力を求めること自体が無理というものだ。
壮大な刑事裁判ショーで被告人に有利な判決を得るには、CGを駆使し、パフォーマンス技術を磨く必要があるだろうが、そういうことができる有能な弁護士を雇うことができるのは、これからはごく一部の資産家だけということになってしまうかもしれない。
国選弁護人にそういうことをやってもらおうと思うのは、よほどのボランティア精神があるか、よほどの使命感のある弁護士に当たらない限り、おそらく無理だと思う。
精神論をいくら唱えたところで、弁護士も生活者であるから、無理なものは無理である。
「各地の弁護士会を中心に、弁護人の力量を向上させる取り組みが急務ではないか。」というのは正論だと思うが、こういう事情について江川さんはどうお考えなのだろうかと思った。
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コメント
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やはり、裁判員制度は論理的にも概念的も欠格しているとしか私には理解できません。
三権分立の司法に国民が広く参加をすることを宣伝に使っているようですが、
それならば、司法に携わりたい人間がちゃんと試験を受けて合格して携わればいいだけのことです。
それに、傍聴人が不規則発言をして法廷から外に出されるということもあるようですが、これは、傍聴人でさえ法廷の一部を担っているからこそ、人間の音声による単なる雑音ではなく不規則発言として扱われるわけです。つまり、傍聴人も参加の度合いは別としても裁判に参加しているのです。
裁判員制度は論理的に崩壊した矛盾の集合のもので、プロの裁判官や検事が普通の人の感覚をもたないから一般人を入れるという発想そのものが、既に法曹界の人間が「自分らは違う、エリートだ」と思い込んでいるようにも見えて、そのエリート意識が大事ならば、裁判員制度なんかやめてプロがプロとして十二分に職能を発揮できるようにすればいいのでは?
そういうエリート意識がないのなら、裁判員などなりたくない人の普通の感情や感覚も理解できるはずなんですけどねえ。
裁判員制度に日本の未来の不幸を見切った感覚がぬぐえないのですけど。
投稿: Sarasvati | 2009年8月13日 (木) 13時48分
Sarasvati さんへ
>プロの裁判官や検事が普通の人の感覚をもたないから一般人を入れるという発想そのものが、既に法曹界の人間が「自分らは違う、エリートだ」と思い込んでいるようにも見えて、
現実に実務についている裁判官や検察官の大半は、裁判員制度を望んではいないでしょうし、導入の誘致もしていません。
「プロの裁判官や検事が普通の人の感覚をもたないから」と言い出したのは、一体誰なんでしょう。国民ではないでしょうね。司法審委員の学者の方々ではないでしょうか。
投稿: M.T.(管理人). | 2009年8月13日 (木) 23時01分