裁判員の良心
昨日、裁判員制度はいらないの集会に出席している間に、ザ・スクープで裁判員制度をテーマにした特集が放送されていた(放送時間を間違えていて録画し忘れてしまった)。
第一部 「私は間違えた」・・・袴田事件元裁判官 “贖罪の旅路”
には、熊本典道元裁判官も出演されたようだ。
※ 熊本元裁判官に関する私のブログの過去の記事:
ぜひ見たかったのだが残念だ。それで、この特集を見た方のブログを探してみた。
この特集を見られた市会議員の方のブログ(山下明子の幸せの黄色いニュース)の記事はこちら。この特集の内容を詳しく紹介して下さっている。
裁判員制度が始まってしまったら、裁判員の「冤罪をうまない」責任は重い。
感情に流されることなく冷静になって、証拠を慎重に分析し、検察官、弁護人双方の主張をよく検討し、論理的に判断しなければならない。
そのためには時間も必要だろう。裁判官の言葉をうのみにするのではなく、時には裁判官に懐疑的な眼を向けることも必要だろう。そもそも職業裁判官に裁判を任せっぱなしにしていてはいけないと始まったのが裁判員制度なのだから。
職業裁判官と対等に議論するためには、職業裁判官と同等かそれ以上に証拠や記録を分析する必要があろう。しかし、公判前整理手続には裁判員は参加しないので、裁判が始まる時点で既に裁判員のスタートは遅れている。それを取り戻すのには裁判員にも相当の努力が必要となろう。
裁判員制度が冤罪をうまないための原動力になるには、裁判員に多くのことが求められると思う。
現実にそれが可能なのか?
それが可能な裁判員がいても、多数決で多数を取ることができるのだろうか?
一生懸命記録を読み証拠を分析して無罪を確信しても、多数決で破れ、量刑判断にまで加わらざるをえず、心ならずも死刑を宣告せざるをえなくなった裁判員の良心はどうなるのだろう?
その裁判員にとって熊本元裁判官の苦しみは人ごとではなくなるだろう。
職業裁判官は、自ら裁判官という職業を選択したのだから、その苦しみを引き受けるのも仕方がないことかもしれない。しかし、裁判員は自ら裁判員という仕事を選択したわけではない。それどころか「義務」として強制されるのである。
熊本元裁判官の言葉にはもっと耳を傾けるべきだと思う。
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