刑事弁護についてのQに対する(一応の)回答ーその4
刑事弁護についてのQ に対する(一応の)回答は、本日が最後。さて、最後のご質問は、
Q6 営業の現場では相手が要求を直接口に出したりせず「察しろ」という形で交渉が行われることが少なくありませんし、口には出さずとも暗に理不尽な要求を突きつけてくる場合があります。
不可能な理由を言い立てる被告人もなぜそう主張するのかは理由があるのですから上手くそういう意図を汲んで被告人の心を解いてやり、またそのために時間が必要ならとげを立てずに上手く時間を稼ぐ法廷戦術を取る技術が必要なのではないかということです。
「相手が理不尽な要求を突きつけてくることがある」、まさにそのとおり。弁護士のような職業の宿命として、交渉の相手方から(時には依頼人からさえ)理不尽な要求を突きつけられることも多い。しかし、その要求を上手くかわすのには限界がある。ときには、毅然として突っぱねなければならないこともある(そのときは裁判になる)。
不可能な理由を言い立てる被告人もなぜそう主張するのかは理由があるのですから上手くそういう意図を汲んで被告人の心を解いてやり、またそのために時間が必要ならとげを立てずに上手く時間を稼ぐ法廷戦術を取る技術が必要なのではないかということです。
「不可能な理由を言い立てる被告人もなぜそう主張するのかは理由があるのですから上手くそういう意図を汲んで被告人の心を解いてやり、」これはもっともなご意見である。「被告人の心を解いて」説得できれば、それにこしたことはない。たとえば、説例Bや説例Cで被告人を説得できればそれが一番である。
しかし、現実には、そううまくいかない。
私は、弁護士になってから「話せば分かる」とは素直に思えなくなった。世の中には「いくら話しても分からない」人も多い。
特に、被告人となるような人はそれぞれに複雑な環境や経験や性癖や考えを持っている人が多く、たいした人生経験も持たない弁護士がちょっとばかり話をした位でそうそう説得などできるものではない。
私は、「人は必ず説得できる、話せば分かる」と信じることのできるこの質問者の方を、幸せな方だとうらやましく思う。
「またそのために時間が必要ならとげを立てずに上手く時間を稼ぐ法廷戦術を取る技術が必要なのではないかということです。」
「上手く時間を稼ぐ」には限界がある。
これは、今回の安田弁護士が最高裁判所の指定した期日に出廷しなかったことを指しておられるのだと思う。
母子殺人事件についてはあまり具体的には触れたくはないのだが、安田弁護士は期日前に「期日変更の申し立て」をしている。刑事でも民事でもこの期日変更の申し立ては、そうそう珍しいことではない(特に民事では)。私は、裁判所は(自分も判決期日を一方的に延期したり、自己都合ー民事事件だが裁判官の研修日にあたったからという理由での変更もあったようなーで期日変更をすることもあるので)、そんなに期日の変更に厳しいという印象は持っていない。
しかし、今回の最高裁判所は厳しかった。なぜだろう?大体、上告から何年も期日を開かずに待たせていたくせに、突然どうしてそんなに期日を急いだのだろう?
そのような最高裁判所の期日に準備不充分なまま出頭しても「時間稼ぎ」などできただろうか?
裁判所が被告人の自己防御権行使の保護よりも裁判の迅速化の方を優先しようとしている今、「上手く時間を稼ぐ法廷戦術を取る技術」というものがあったなら、教えて頂きたいものだ。
Q7 安田弁護士の場合、遅滞戦術を常套手段としており検察とも司法とも関係が良くないようです。
今回の場合、過去の経歴が裏目に出た面もあるのではないでしょうか。
そもそも検察が上告をした時点で最悪の事態を想定し足場を固めておくべきだったのではないかと私は思いますし、被告人が犯行当時18歳なりたてで未熟だからという点で争ってやっと 無期懲役を勝ち取ったわけですから上告審で判決が覆る可能性も少なくない。
勝って兜の緒を締めずにいまさら慌てふためいても「もう遅い」となって当然だと思いますが。
私は、安田弁護士の弁護活動をよく知らないが、たとえ「遅滞戦術を常套手段としており検察とも司法とも関係が良くないようです」ということがあったとしても、弁護人が誰かによって裁判所の判断が変わってくるようでは裁判所でさえ「公平」「中立」ではないことになる。弁護人が誰かによって被告人が不利益に扱われのであれば、裁判所の方が責められるべきであろう。
「そもそも検察が上告をした時点で最悪の事態を想定し足場を固めておくべきだったのではないかと私は思いますし、被告人が犯行当時18歳なりたてで未熟だからという点で争ってやっと 無期懲役を勝ち取ったわけですから上告審で判決が覆る可能性も少なくない。
勝って兜の緒を締めずにいまさら慌てふためいても「もう遅い」となって当然だと思いますが。」
これは、確かモトケン氏こと矢部弁護士がブログに同様の意見を書かれていたと思う。
私は、安田、足立両弁護士の弁護活動も、辞任した前の弁護人の弁護活動も、またこれらの弁護人らと被告人が接見室でどのような会話をかわしたのかも、具体的なことを何も知らないので、とてもこのような断定的な意見を述べる勇気はない。
ただ、一般論として、次のようなことがあることを述べるにとどめさせて頂くしかない。
まず、拘束されている被告人の精神状態は揺れやすい。いくら弁護方針の決定権は最終的に被告人にあるとしても、特に人格形成の未熟な若い被告人の場合など、なかなか被告人自身で決断することが難しいこともある。ましてや自身の生命がかかっているような決断となればである。
そして、弁護人の弁護方針の選択というのは、弁護人によって異なることが多い(たとえば設例A、B、Cのようなケースで意見が分かれることは前記のとおりである)。戦闘的な弁護活動を選択する弁護人もいれば、情状立証の方に重きをおく弁護人もいるのである。
このような状況下では、被告人は同一人であっても、弁護人が変わることで、弁護方針に変更が生じても不自然ではないのではないだろうか。
これについては、何度も引用している季刊刑事弁護NO22の特集刑事弁護の論理と倫理の上田國廣弁護士の次のような記述を参考にして頂きたい(「被疑者・被告人と弁護人の関係②」p33~)。
「さらに、(被疑者・被告人の)自己決定権が必要・十分な条件で行使されたかも問題になるはずである。
捜査過程の人権抑圧的な構造、人質司法といわれる不正常な身体拘束の継続、無罪推定の形骸化と99.9%の有罪率。このような現在の刑事訴訟の条件を前提とする限り、弁護人が誠実義務の一環としての十分な説明をすればするだけ、自己防御権を徹底して行使しようとする依頼者は皆無に近くなる。
弁護人が無罪になる可能性を誇張して説明しない限り、無罪を主張し争う依頼者は限りなく減少する。現に多くの依頼者が『執行猶予が付くのであれば』と言って、たとえ冤罪であっても、事実を認めている。」
以上が私の考える回答だ。具体的な事件についてはこれ以上何か意見を述べるつもりはないことをご了解下さい。
最近、私のブログを見た先輩弁護士から「あんたは暇なのか。」と言われている。仕事も忙しくなってきているので、これ以上のQはご勘弁頂きたい。
更なる疑問をお持ちの方もおありだろうが、私などよりも刑事弁護の経験豊富な弁護士や学者の先生方に、ご質問頂けないだろうか。
なお、モトケン氏こと矢部善朗弁護士にも、同じQを送ってご回答をお願いしてあるので(http://www.yabelab.net/blog/2006/04/23-121427.php)、矢部氏のご回答にも期待されたい。
文章を書くことにそれほど抵抗のない私だが、やはり今回のテーマは重くて書くことにエネルギーを要した。
他の法曹関係者のブログを見ても、時事的な話題にさらっと触れてちょっとコメントするだけでまた次の話題へというものが多い。ブログという媒体の性格上、仕方がないことかもしれないが、たまには一つのテーマを掘り下げてもいいのではないかと思い、今回刑事弁護の本質や刑事弁護人の役割を考える長い記事にチャレンジしてみた。
安田弁護士に対するバッシングをみると、刑事弁護人の役割についての誤解によるものも多いようだ。裁判員制度の施行を前に、法曹関係者ではない一般市民の方々にも、この機会にぜひ刑事弁護人とは何なのかを真剣に考えて頂きたいと思う。私の記事がその一助となれば幸いである。
さて、来週からは、また通常の記事(これからの記事(予定)参照)に戻って、少しずつ弁護士の活動についてご理解を頂けるようにしたいと思っている。お時間のあるときに、覗いてみて下さい。
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丁寧なご解答ありがとうございました。また不躾な質問失礼いたしました。
まだよく理解できないことはありますが、今後の記事も時々のぞかせていただきたいと思います。
前回の記事のリンク先も読ませていただきましたが、医療改革もそうですが、司法改革も現場の声を無視して行われている気がしてなりません。結局お金を持った人が勝ち、安ければ安いほどよい、という価値観に現代の日本が支配されているのでしょうか。
失礼ながら、私は昨今の事件で、司法関係者は現実可能かどうかを考慮せず、批判ばっかりしている、おいしい職業だ。医師なんかやめて弁護士に鞍替えしたほうがいいのではないか。(冷静になって司法試験の困難さに無理だと思いましたが。)法科大学院ができてさらにひどい弁護士がふえるだろう。いったいどういう世の中になってしまうのだろうと思っていました。だからこれからの世の中では弁護士は決して努力に見合う報酬が得られるわけではない、という管理人さんの言葉に申し訳なく思いました。きっと心ある弁護士の方はそう思われるのでしょうね。
個人的には、批判する人や審判を下す人(弁護士、裁判官)は、少数精鋭でいいのではないかと思います。そして高い志を持った方、尊敬される職業であって欲しいと思います。批判や審判はとても大切なことだけど、でも実際に行動することはもっと大切だと思っているからです。例えば、医療裁判も行き過ぎれば、医療行為事態からの逃散につながるわけで、医療事故・過誤被害者の権利は守られても、その何百何千倍もの医療受給者の権利を阻害するからです。
これからも楽しみにしています。
投稿: 医療って | 2006年5月14日 (日) 08時18分
「医療って」さんへ
私の長い記事を読んで頂きありがとうございます。
私も医師は人の生命や身体を預かる大変な仕事であり最も尊敬されるべき仕事であると思っています(欧米では激務の上に責任が重いために「自分の子供は医師にしたくはない」と考える医師が多いそうですが、それも頷けます)。
弁護士も責任は重いですが「命」まで預かることはまずありません(「金」を預かることは多いですが)。
おっしゃられるとおり、医療改革も司法改革も、もっと現場の声を聞いて進めて頂きたいと思っています。業界内の人間が異議を唱えると直ぐに「ギルド的発想だ」とか「抵抗勢力だ」と切って捨てるということだけはやめてほしいものですね。
今の司法改革で最も気の毒なのは、ロースクール生だと思います。高いロースクールの入学金や学費を支払い、かつ司法試験に合格するために予備校にも通い、合格しても就職先が見つかるか、弁護士としてやっていけるのかという不安を抱えている。
そのもたらす結果をよく考えもせずに、こういう改革を推進した人たちの責任は重いというべきです。
投稿: M.T. | 2006年5月15日 (月) 13時10分
先生おつかれさまです。
私は、数少ない安田弁護士擁護派だったのですが、先生の記事を読むことで少し胸のつかえがとれました。
しかし、私は少し絶望的な気分になっています。
というのは、本当に安田弁護士擁護派は少数なのです。
そもそも「殺意が無ければ殺人にならない(私は法律家ではないので確信はありません、間違ってますか?)」ということがわからないために安田弁護士の主張自体を異常扱いする人が余りにも多すぎるのです。
これは、法曹界が一般市民に対して理解を求める努力を怠ってきたからではないでしょうか?
もちろん、今までのように「難しい法律論は専門家に任せておけばよい」というのであればそれでいいのでしょうが。
しかし世の中の流れは、そうなっていません。
ここら辺は、本当に難しいところだと思います。
というのも、一般市民が法律に詳しくなってしまったら、弁護士の活躍する場が少なくなってしまうという危険性があるからです。
私は、多重債務者の借金返済ブログなどを見ているのですが、「弁護士費用がもったいないから、裁判や各種申し立ては、自分で勉強してやるべきだ」
という意見が主流です。
これは、ある意味当然なのですが、それがエスカレートして「弁護士は役に立たないアドバイスをするだけで30分5000円もの大金を取る悪党だ」
などという意見まで出て、しかもそれが支持されている始末です。
民事裁判においては、お金に余裕がある方が有利だといことです。
しかし、私が思うに現在の司法改革を推し進めたら、今まで以上に金を持っている人間だけが勝てるという世界になってしまうのではないかと危惧するわけです。
長文失礼しました。
投稿: RYZ | 2006年5月17日 (水) 11時33分
4月以降、法曹界関係者や件の事件の間接的な関係者のブログを見てきましたが、ここが一番丁寧に記してらっしゃるような印象を受けました。
真実は3つある、というのは、薄々理解したつもりではいましたが、活字で見るとその衝撃は大きいです。件の事件も手法として有り得るということは理解できましたが、それがどのような手段(ちょうちょう結び、想像画)でも構わないということを突きつけられたようで。
どうやら思っていたより「裁判=神の名のもとでの真実を求める」の意識が強いようです。
先の方が書かれた「殺意がなければ殺人ではない」という言葉も非常にショックでした。人の命を奪っても、その時点で殺意がなければ殺人にはならない…過失致死というものでしょうか?「○○をしたら人に危害を加えるかもしれない」ということを考えていかなければ遊びの(つもりの)延長でどんどん「≠殺人」が発生していきそうです。
でも結局のところただの素人なので、このままでいくと話し合いには弁護士をお願いできる余裕がなければ泣き寝入りになることになるんだな、というのが正直な感想です。身を守ることに対して今以上に他人任せにできない時代になるのかもしれませんね。
投稿: よくわからないけど | 2006年6月 5日 (月) 14時59分
「よくわからないけど」さんへ
ー人の命を奪っても、その時点で殺意がなければ殺人にはならない…過失致死というものでしょうか?ー
実際には、「未必の故意」(もしかしたら結果が生じるかもしれないと思いながら、その結果が生じてもかまわないと思いつつ行為を行うこと)というのが認められていますので、人を死に導くような明らかに危険な行為をする場合にはこの「未必の故意」による殺意が認められることが多いと思われます。
投稿: M.T. | 2006年6月 6日 (火) 02時12分